福寿福寿になりたいの
──いつまでも幸せに、長生きできますように。 そんな願いを込められて付けられた、『福寿』という名前。 小学生の頃は、名前を書く機会がある度になんとも難しい漢字にうんざりさせられ、中学生になると、一般的ではないこの名前で揶揄われることに憂鬱な気持ちになりました。高校生も後半になると、皆大学受験で忙しくなったからか、そんなことで私にちょっかいをかけてくる人もいなくなりましたけど。 兎にも角にも『福寿』というこの名前は、込められた願いとは裏腹に私にとって、厄介なものであることに変わりはありませんでした。 大学生になって、猶予時間とも呼べるキャンパスライフが始まりました。 この頃になると、今までの狭い人間関係から離れ、色々な人と関わることになります。周囲も、それから私自身も大人になったのでしょう。気付けば、名前のことで嫌な気持ちになることはなくなっていました。 そうして名前へのコンプレックスが収まっていた私でしたが、月曜日の昼過ぎ、大学のカフェテラスでレポート作成をしている時に聞こえた「フクジュってさ~」という声には、すわ私の悪口か何かかと耳をそばだててしまったのは、積年のコンプレックスのせいでしょうか。 しかしその後に聞こえてきた会話は、全く予想だにしていなかった内容でした。 「フクジュってさ、今週の飲み会ほんとに行かんの?」 「あーうん。僕そういうのあんま興味なくて……お酒も飲めないし」 「そっかー。まあ無理にとは言わないけど、またなんか別の行こうぜ」 「ごめんな、また誘ってよ」 なんと、私の他にフクジュという名前……もしくは名字の人がいるのです! フッと呼吸が浅くなり、思わず息を潜めて耳をそばだてますが、声はそのまま離れていってしまいました。そうなってから慌てて立ち上がって辺りを見渡すも、既に声の主と思わしき人たちは見当たりません。 困りました。 探そうにも、顔も知らなければ、名前……名字か名前が「フクジュ」であることしかわかりません。この広いキャンパス内、相手が何年生なのか、学部、学科もわからない中探し出すのは絶望的でした。 はぁっとため息を零すと、また腰を下ろしてレポートに取り掛かるのでしたが……当然、キャレットは点滅を繰り返すばかりで、一向に進みませんでした。 ──しかし幸いにも、再会……もとい、出会いの機会はすぐに訪れるのでした。 「経営学科の福寿佳介です」 後期の初回の講義で、教員の自己紹介をしてという突然の無茶ぶりに、さてどんな自己紹介をしようかと頭を悩ませていた時に耳に飛び込んできたのは、あの名前でした。 「えっ……」 思わず顔を上げ、今まさに自己紹介をしている男子学生の姿をまじまじと見ました。 印象としては、少年。この講義を取れる最低年齢の私よりも幼く見える柔和な顔立ちに、線の細いシルエットも相まって、高校生くらいに見えます……。 自己紹介を終え、拍手を受けて少し照れくさそうに座る彼を目で追っていると、「はい、次の人……あなたですよ?」と教員に指名され、慌てて立ち上がり──。 「あ、えっと、人文学科の……鈴木福寿です。よろしくお願いします……」 ──そう名乗った時でした。先ほど福寿佳介と名乗った男子学生がふとこちらを振り返りました。 目と目が合う。二連続福寿に、周囲の学生たちからも私たち二人に視線が集まります。まるでその瞬間だけは、おとぎ話の主役にでもなったようでした。 それが、私と彼……福寿と福寿の出会いだったのです。 それから、週に一度彼と顔を合わせることになるのですが、幸いなことに彼も私も、この講義に友達と呼べる人はいないようで……。更に言うなら、二人一組になってディスカッションを行う機会も多い講義だったので、勇気を出して積極的に話しかけ、ついには連絡先を交換するまでに至りました。 ──福寿佳介。 なんでも親元を離れ、一人で遥々この地に進学してきたらしいです。「ここの皆川先生が有名な経営学の教授で、その先生から学ぶために来たんだ」という大した志の持ち主で、家から比較的近く、また学力的に丁度良いという理由でこの大学を選んだ私とは大違いです。 経営学というと、一応文系でありながらも数学を多く用いる学問ということで、数学系を大の苦手とする私的には蕁麻疹が出そうなことを学んでいるらしく、同じ人文学部でありながら今の今まで授業が被ることがなかったのも頷けます。 ちょうどこの講義が二時限目ということもあり、自然とその後のお昼ごはんも一緒に取るようになって、二ヶ月も経つ頃にはすっかり打ち解けていたのでした。 「鈴木さんはさ、ゼミはどこに入るつもりなの?」 「私は今のところ、大迫先生のゼミに入りたいなって思ってるんだけど……」 大迫先生は現役作家であり、同時に社会民俗学の教授でもあるすごい人です。 少し変わった先生ではあるけど、単純に先生のファンであるという学生も多いので、きっと倍率が高くてゼミに入るのは難しいでしょう。 「佳介くんはやっぱり、皆川先生のところ?」 「うん。皆川先生が講師をしているコマはできる限り取るようにしてるし、講義外でも色々と教えてもらったりしてるから、たぶんゼミにも入れそう」 「え、すごい! それは良かったね……!」 呼び方は、お互いややこしいことになるので私からは名前呼び、佳介くんからは名字呼びです。 そういえば……やはり佳介くんの住む地方でも福寿姓は珍しいらしいのですが、しかし何人かは知っている人がいるらしく、比較的福寿姓の多い地域らしいです。 そんなところに生まれていれば、両親も私に福寿という名前を付けたりしなかったんじゃないか……いやでも、そうなるとこうして佳介くんと出会うこともなかったかも知れません。むしろ、こうして佳介くんと出会うきっかけとなった福寿という名前を付けてくれたことに初めて感謝の気持ちが湧いてきます。 ──なんて、そんなことを思ってしまうくらいには、気付けば私は佳介くんに思いを寄せてしまっていたのでした。 --- 「自分で自分が信じられない……まだ、出会って二ヶ月だよ!? それも週に一回くらいしか会って話さないっていうのに……」 「まあまあ、恋なんてそんなもんでしょ」 火曜日、大学に入ってできた友達の南ちゃんとカフェテラスで昼食を取りながら、いわゆる恋愛トークというものをしていました。 なにぶん恋愛経験ゼロの私からすると、高校生の頃からの彼氏を持っている南ちゃんはいわば恋愛のスペシャリスト。最初の頃はそれとなく恋愛上手の持つテクニック等を訊いてみていたのですがあっさりと想い人がいることを看破され、それからは素直に恋愛相談に乗ってもらっているのでした。 「んで、明日はそのもう一人の福寿とお昼食べる日でしょ?」 「うん……」 「私思うんだけど、本気で狙いに行くなら他の曜日もお昼に誘った方がいいと思うのよね」 「う、でも……」 いつも佳介くんと会う講義は水曜日です。それ以外の日はこうして南ちゃんとお昼を一緒にしているのですが、ううん……やはり、週に一度では良くないのかも知れません。それに講義はあと一ヶ月ほどで終わってしまいます。二ヶ月という長い春休みが明け、四月からまた別々の講義を取ることになれば、あっという間に疎遠になってもう卒業まで顔を合わすこともなくなってしまうかも知れません。 基本的に文系の講義と理数系の講義は行われる棟が偏っているのです。 しかし、こうしてできた友達……南ちゃんとおしゃべりをしたりするのも、私に取っては重要で貴重な時間です。それを私の都合で遠ざけてしまうのはとても申し訳ない限りなのです……。 「またくだんないこと考えてる……あのねぇ、私とはお昼以外でも講義被ってたり、一緒に下校してカラオケ行ったり、色々してるでしょうが。別にお昼の時間くらい良いわよ」 「あ、ありがとおぉ!!」 「はいはい……」 と、いうわけで。翌日のお昼、私は勇気を振り絞って「あ、明日とかもお昼……一緒にどう……ですか?」と、それはもう腹を切る罪人のような覚悟で切り出してみたのです。 なんと答えは「え? もちろん!」とのことでした。なんというか……奥手な自分に嫌気が差した瞬間でした。 こうして順調に距離を詰める一方、どうにも上手くいかないのが、肝心の会話でした。 私自身どうしても口下手な性格であることと、性別も違えば学科も違う……それから出身地も違うのです。はじめの頃は良かったのですが、会話を重ねるごとに共通の趣味・話題がないというのは大きなネックになっていきました。 「佳介くんは、なにか趣味とかあるの……?」 「うーん……そうだなぁ」 佳介くんは少し悩んで、コーヒーを一口含みます。 「正直趣味っていう趣味はないんだけど……ちょうどこっちに来て一度、スキーに行ったんだけど、それがすごく楽しくてさ。前はレンタルだったんだけど、今季は自前のを買おうかと思ってるんだ」 「へええ! スキーかぁ……」 スキー……高校二年生の授業で行ったきりなので、もう二年やっていません。でも、そう。折角です。 「よ、よかったら、春休みに一緒に行きませんか!?」 「え、良いの?」 私からの提案に、驚き顔の佳介くん。なんでも、友達はみんなスキーに興味がない……もしくは冬の山に行きたくないという人ばかりで、一人で行こうかと思っていたらしいです。けれども一人で雪山は色々と危険もあり、どうしようかと悩んでいたところにあった私からの提案は、渡りに船だったということらしいです。 こうしてついに仲を深める絶好のチャンスを手にした私は、スキー用具一式の値段を調べて土日にだけシフトを入れている、バイトの回数を増やすことを決めたのでした。 --- 一月。 大学の春休みは長いです。一月末から三月いっぱいまで続きます。……正直、季節的には冬ですし、春休みではなく冬休みなのでは? とも思いますけれど、それはともかく今日はいよいよ待ちに待ったスキー当日です。この日のためにスポーツ用品店でスキー板や靴、ストックに加えて、ゴーグルや帽子までも全て新調しました。 ……高校を卒業する前にもう使わないと思って処分していたのですが、まさかこんなに早く使うことになるとは思ってもみませんでした。こんなことなら取っておけば良かったです。 一度駅で集合し、そこから無料送迎バスで向かう予定で、重たくて大きな荷物を背負って一般的な路線バスに乗るのはなかなか骨が折れます。そうして駅で落ち合った佳介くんは、まだ雪山に着いてすらいないというのに帽子や手袋、ゴーグル等を全て装備していて、思わず笑ってしまったのでした。 「昨日はそれなりに雪が降って、今日は快晴……最高のスキー日和ってやつだね」 「ふわふわのパウダースノーだと良いねぇ」 「まだ一回しか滑ったことがないからわかんないんだけど、パウダースノーとそうでないのだと、どんな感じで違うの?」 「パウダースノーじゃないっていうのは……雪が押し固められて、氷状になってて──」 送迎バスの中、隣の席に座った私達はお菓子を食べながらそんな会話を楽しみますが、気の所為かいつもより口数が多くなってしまっていたかも知れません。大体こういうときは、夜寝る前とかにいらないことまで喋り過ぎた……と後悔することになるのですが、今のこの楽しい瞬間の前では大して気になりませんでした。 そうして話しているうちに、気付けば窓を流れる景色は木々が生い茂っていき、道も細くなっていきます。 もうそろそろ着きそうだね。今からなら、ちょっと滑ってお昼を食べて夕方まで滑れそう。そんな会話の末、ついに私達を乗せたバスはスキー場に着いたのでした。 --- さて。バスを降りた私達は運転手さんからスキーを受け取ると、そのままコテージまで歩いていき、リフト券を買って早速ゲレンデに降り立ちました。 「おおお、すごい広い!」 「結構人いるね!」 ゲレンデには平日にも関わらず、多くのスキーヤー、スノーボーダーで溢れかえっていて、よく見るとゼッケンを着けた小学生や中学生の集団の姿も複数見受けられました。 「あー、平日だと逆にスキー学習と被るんだね」 「土日だと一般客が多いだろうし、まあどっちに来ても変わらないかな」 そうして私達は……最初は一番低いところまで連れて行ってくれるリフトに乗りました。 佳介くんはまだ二回目、私も実に二年ぶりとなるスキーです。 感覚を取り戻しておくためにも、最初は傾斜も緩く、距離も短い斜面を滑るのでした。 佳介くんはスキー自体の経験は少ないのもあって、最初のうちは動きがぎこちなかったのですが、素の運動神経は良いのでしょう。あっという間にスムーズに滑れるようになります。 私も授業外で来たことはありませんでしたが、高校二年生までは毎年校庭にある山と、スキー場で複数回滑っていました。すぐに感覚を取り戻して普通に滑れるようになりました。 そうして少し滑ったあと、私達は一度コテージに戻り、併設されている食堂でカレーライスと味噌バターコーンラーメンを食べました。 ……どっちがどっちを選んだかは、まあ言わずもがなでしょう。 午後からは、今度は山の頂上へと続く四人乗りのリフトに乗って、長いコースを滑ることにしました。 リフトは学生の団体の関係もあり、たまたま運良く二人だけで乗ることになりました。私達はチョコレートの破片を分け合いながら、頂上へ向けゆったりとした空の旅を楽しみます。 最初のうちは、やはり雪質がふわふわで良かっただの、コテージの食堂は値段の割に大学の食堂より少し味が微妙だのといった取り留めのない話をしていました。しかし狭い空間の中、話題もなくなり段々と無言の時間が増えていきます。けれども、不思議と居心地は悪くありません。むしろ、すぐ傍に佳介くんがいて、その気配を感じられるこの時間がもっと続けばいいのに……なんて、そんなことすら思ってしまいます。 佳介くんは、どう思っているのだろう……? そんなことをふと思ってちらりと顔を見ると、佳介くんと目が合いました。 「……」「……」 しばらくの沈黙の後、なんとなくおかしくなって、私達は同時に吹き出してしまいました。 ──ああ、たぶんきっと、佳介くんも同じ気持ちだったんだな。そう思って、私は手で弄んでいた最後のチョコレートの破片を口に含んで笑いました。 この時間が永遠に続くことはありません。今食べているチョコだって、口に入れてしまえばあっという間に溶けてなくなってしまいます。それでも、それは次のステップへ進むために必要な終わり、なのでしょう。 --- 「わぁぁ……!」 「すごいね……」 リフトを降り、山の頂上に着いた私達は、眼前に広がる景色を目にして思わず声を上げてしまいました。 澄んだ広い空に取り囲まれ、まるで空の中に立っているかのような気分になります。景色のずっと奥の方には、私達の暮らす街がミニチュアのように見えます。別に初めて見る景色ではないですが、やはり絶景というのはどうにも言語化できない感動を覚えます。そんな景色を佳介くんと二人で見ることができた──それだけで、スキーに来て良かった……そう思いました。 その後はそんな絶景を背景に二人で写真を撮り、お互いの姿を目で追いながら、そして声を掛け合いながら、一緒に滑り降りていくのでした。 --- 「今日は楽しかったね……」 「本当! 高校卒業して、スキーなんてもうやらないものと思ってたけど……毎年来たいくらい」 「うん……よかったら来年も一緒に来ない?」 「えっ、良いの……?」 これは……もしかして、遠回しな告白だったりするのでしょうか? そう思って思わず佳介くんの顔を見ますが、本人は特に含みのなさそうな表情でもちろん! と笑うばかりです。 思わずじれったい気持ちにもなりましたが、これからも一緒に過ごせるということに変わりはありません。今は素直に喜んでおくことにしました。 そうして駅に着いた私達は、別れを惜しみます。佳介くんは故郷に帰るそうで、残念ながら四月まで会うことはできません。この会話が終われば、しばらくのお別れです。 「今日はお疲れ様。本当に家まで送っていかなくて大丈夫?」 「あ、うん。バス停からすぐだから……今日は楽しかったね」 「ほんと。付き合ってくれてありがとう、鈴木さん」 「……あの、よかったら……福寿って、呼んでもらえませんか?」 ふと、更に勇気を出して一歩前へ踏み込んでみました。 「えっ」 「あああごめん、自分の名字と同じ名前を呼ぶなんてなんか嫌だよね……」 「いや……むしろ良いのかな?」 気付けば下がっていた視線を上げると、佳介くんも少し照れた様子で眉を下げていました。 あ、嫌だと思ってないんだ。 「もちろんだよ!」 「う、うん……じゃあ、福寿……さん?」 「え、えへへ……なんか照れくさいね」 それにしても、今日は随分と心の距離を詰められた気がします。二ヶ月ほど間が開くといっても、また大学が始まれば一緒にお昼を食べたりできますし、惚れた弱みと言いますが、やはり今後も私から積極的にアピールしていかなければいけないでしょう。 「福寿さん……?」 「あ、ごめん。ちょっと考え事してて……」 とりあえず、今は目の前の時間を精一杯大事にすることが私にできることでしょう。バスが来るまでの時間、私は佳介くんと談笑に花を咲かせるのでした。 --- そうして月日は流れ、学年が上がり、各々がゼミに所属してより専門的な内容を勉強したり、研究をしたりするようになり、同じ講義を受けることはなくなりましたが、相変わらず私と佳介くんはお昼休みには一緒に食堂やカフェテラス、天気の良い日には中庭のベンチで昼食を取る日々が続きました。 そうしているうちに、私の中で佳介くんへの感情は段々と膨れ上がっていくのを感じていました。 この想いを何とか形にして伝えなければ、いつか心が破裂してしまうのではないか。そう思ってしまうほど、焦がれていたのです。 どうやって想いを伝えたら良いのか。直接言ってしまうのは少しハードルが高そうです。では、料理を作るとか? 残念ながらふたりともお弁当を作る習慣はありません。それに、大学生にもなってお弁当を作って来て渡すという発想は、少しばかり少女漫画の読み過ぎでしょう。 色々と悩んだり、南ちゃんに相談したりしましたが、どうにもピンとくる方法が思いつきません。 そうこうしているうちに、気付けばまた一年が経とうとしていました。 私は現在、希望通り大迫先生のゼミに所属でき、今は卒業論文に向けた準備の一環として、大迫先生が小説を書く前にしているというネタ集めについての講義を受けています。 「今日は少し趣向を変えて、平安時代の男女の恋愛について講義しようと思います」 「え? 珍しいですね」 大迫先生が書く小説は、ホラーというか、都市伝説や怪談・呪術等を題材としたもので、あまり恋愛という要素は少ないので違和感がありました。 「まあ、恋愛には恨みつらみがつきものですからね……今日お話するのは出会いと連絡手段についてです」 大迫先生はホワイトボードの前に立ち、私を含む数人が意識を傾けているのを確認すると、話を続けた。 「平安時代……まあ貴族に限った話ですが、基本的には夜這いが主な手段だったわけです。男が女のいる部屋に行き、一夜の交わりをする……わけですが。これは恋愛云々というよりは性愛でしょうから」 大迫先生は作家らしく、少し変わっています。年頃の男女にこうして開けっぴろげに話をするのです。しかし、内容はとても面白いので、思わず耳を傾けてしまうのです。 「別の手法を話しますと、恋文ですね。これは短歌の形や、時には漢文を引用して書かれ、送られました。基本的には勉学は男子がするものであるとされていましたが、位の高い女子はむしろ教養とされていたわけで──」 先生はそのまま講義を進めていきましたが、私の脳には電流が走っていました。 「恋文……ラブレター……」 なんということでしょう。あまりにも古典的。あまりにも物語的過ぎて、すっかり頭から抜けていました。でも、確かにそうです。想い人にはラブレター。そこで関係が決まるにしても、決まらないにしても、まずは想いを伝えなければ何も変わりません。 きっと、最初にラブレターを書いた人も、私のように直接言葉を口にすることが難しくて文字にしたに違いありません。 その後の先生のありがたい話も聞き流しながら、さてどんな文章にしようかと夢想することになるのでした。 --- 『◯月◯日に会って話したいです──』 『拝啓、秋もますます深まり──』 『急なお手紙、びっくりさせてしまってごめんね──』 『大雪の 峰より落つる みなの川──』 『あなたのことが好きです──』 『あなたのことをこんなにも想う気持ちが、恋心でないことはあるのでしょうか(いや、ない)』 「──ううん、駄目だ……全然良い文章が思いつかない」 直接言うよりは容易いと思っていたラブレターでしたが、想像以上に納得のいく文章が書けません。言い回し一つ一つがどうにも納得いきません。 遠回しになり過ぎたり、直接的になり過ぎたり、はたまた改まり過ぎたり、馴れ馴れしくなり過ぎたり……。もう文中の告白部分どころか、書き出しすら思いつきません。 首を鳴らしながら立ち上がり、窓の外をなんとなく眺めます。 場所は大学の図書館で、色々な書籍を参考にしながら書いていたのですが、気付けばそれなりに時間が経ち、西日が目を刺してきます。 色々と参考にして難しく考えて書こうとしてきましたが、考えれば考えるほどドツボに嵌まっていっている気がします。 ふぅっと息をついて、顔を下げると、ふと机の上に置いてある革製の栞が目に入ります。これは佳介くんが帰郷の際にお土産としてプレゼントしてくれたものでした。 そっと艶やかな表面を撫でると、これを貰った時のことを思い出します。 「あ、佳介くん久しぶり」 「福寿さん久しぶり……なんか焼けたね?」 「休み中、ゼミでフィールドワークに行く機会が何度かあってさ──」 「──そういえば、お土産買ってきたんだ。気に入ってもらえるかはわからないけど……」 「え、本当?」 「うん、福寿さんよく本を読んでるでしょう? ……これなんだけど」 そう言って綺麗に包装された小さな袋を手渡してきた佳介くんは、どこか少し緊張した様子で……きっと、彼ももしかしたら、今の私と同じような気持ちでいたのかも知れません。 そう思うと、なんだか微笑ましいような、胸の奥が暖かくなるような感覚になりました。 「よし、もう一回最初から書いてみよう」 書き出しはそう……基本に帰って、『福寿 佳介 様』。そうして本文は……そうですね、私が福寿という名前をあまり好きではなかったこと。大きくなるにつれて薄れてはいきましたが、いつまで経ってもコンプレックスが残っていたこと。そんな中、あなたに出会ったこと。 ……そうだ。 『出会った日のことを覚えていますか? ちゃんとお互いに認識し合ったのは、ちょうど一年前に同じ講義を受けたあの日でしたよね。ですが実はその少し前に、カフェテラスで、私はあなたのことを知ったのです。 自分以外に福寿という人がいるのかと衝撃を受け、あなたのことを探そうとしましたが、見つけられず……そんな折、講義であなたに出会えた時は、運命を感じてしまいました。』 佳介くんとの時間を過ごすうちに、段々と惹かれていったこと。小さい頃は嫌っていた福寿という名前が、佳介くんに呼ばれる度に好きになっていったこと。 ……そして、これからも、そう呼ばれていきたいこと。 気付けば窓の外はすっかり暗くなっていました。手紙は、もう終盤も終盤です。 最後にこの想いを端的に伝えるならば、どう表現すれば良いのでしょうか。あまりピンとくる表現が思いつきませんでしたが……。 そうですね、最後の一文はこうしましょう。 『──福寿福寿になりたいのです。』